事件前夜の1966年6月29日にも、現場となった家を訪れた。午後7時、いつものように「こんばんは」と雅一郎の母ちえ子に声をかけ、勉強部屋に入った。勉強机が散らかっていて「掃除しないと」と注意したのを覚えている。
死刑確定後の1983年から弁護団に参加。当時の袴田さんの日記を読むと、 日本弁護士連合会 ...
巨大なコンクリートの要塞(ようさい)のような 東京拘置所 ( 東京都 葛飾区 )。「このどこか奥深くに袴田さんがいるんだな」。戸舘圭之弁護士(37)はかつて、依頼人との面会でここを訪れる度に中の様子を想像した。
静岡地裁 の再審開始決定に対する 即時抗告 審が続く 東京高裁 。昨年9月下旬、決定の決め手となったDNA型鑑定をした本田克也・ 筑波大 教授と、その検証実験をした鈴木広一・ 大阪医大 教授の鑑定人尋問が非公開で行われた。
「犯人はお前以外には考えられんではないか、とか、大声で責め続けることがありましたか」。1968年に袴田巌さん(81)への死刑判決を出した一審・ 静岡地裁 での審理。検察官の問いかけに、証人として出廷した県警の捜査員ははっきりと答えた。
袴田さんへの死刑判決を出した一審・ 静岡地裁 での審理で、検察側が証拠提出した袴田さんの 供述調書 ...
取調官の言葉は続く。「(血が)付いてなかったら首やるぞ俺。お? お前も首よこせよ」「ちょん切ってやるぞ」。当時、まだ30歳だった袴田さんが、「はい」「ええ」と短く答える様子も記録されている。
静岡大情報学部の笹原恵教授(54)は、袴田さんの姉の秀子さん(85)が住み込みで働いていたコーヒー店に通い、これらを夢中で読んだ。「いたわりと優しさに満ち、自制の利いた内容に胸を打たれた。つくられた犯人像とは全く違う袴田さんが、そこにいた」。静岡に赴 ...
当時の関係者の中には、袴田巌が犯人と固く信じる人も少なくない。みそタンクから犯行時の着衣とされる「5点の衣類」を見つけた元従業員(82)は「ほかにやる人はいない」。吐き捨てるように「今さら再審なんて、ばかばかしい」と話す元従業員もいる。
2014年に朝日新聞に掲載された、 袴田巌 さんに関する連載を再配信しました。肩書や年齢などは当時のままです。 (敬称略) 「袴田さーん、袴田さーん」。後輩記者と共に「こがね味噌(みそ)」の従業員寮を訪れた富永久雄(73)=県代表 監査委員 ...
面会番号は88番。面会できる場合は電光掲示板に番号が表示される。長いすで数十分待ったが、番号が光ることはなかった。職員に「こちらに用はない。断って欲しい、とのことです」と告げられた。この日も死刑囚である弟・袴田巌(78)との面会はかなわなかった。
熊本は当時の経緯を、再審を求める上申書につづった。約2年間にわたる静岡地裁の公判を通じ、「袴田は無罪」と感じていた。起案用紙に360枚の無罪判決文を書いたが、3人の裁判官の合議の結果は2対1で有罪。「取り決めだから書いてくれ」。石見勝四裁判長から求め ...